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Arts & Culture – INSTeM https://stage.instem.jp Inter-field Network for Science, Technology and Media Studies Fri, 19 Jul 2024 01:44:04 +0000 ja hourly 1 https://wordpress.org/?v=6.6.10 《佐倉統のフィールドノート②》 韓国の仁川と日本の横浜が似ているという話 〜西洋近代化の尺度としての科学とオーケストラ〜 https://stage.instem.jp/article/2023/08/09/1076/ https://stage.instem.jp/article/2023/08/09/1076/#respond Wed, 09 Aug 2023 05:00:00 +0000 https://stage.instem.jp/?p=1076 「仁川(インチョン)? まあ、日本の横浜みたいなところですね」──ぼくが仁川に行くと言うと、韓国の知り合いの誰もが異口同音にこう言った。港町だし、中華街あるし、と。そして、実際そうだった。

仁川といえば国際空港がまっさきに思い浮かぶが、空港以外に何があるか、正直なところまったくイメージがなかった。しかし、ちょっと意外なことに韓国で人口が第3位の大都市で(2位は釜山)、ソウル近郊圏として発展を続けているだけでなく、韓国に西洋近代文明をもたらした玄関口であり、韓国近代化の出発点でもある。韓国の中でも独特の位置を占める、奥の深い都市なのだ。

仁川と横浜が似ているというのは単なる表面的なものではなく、両国の文明史の過程そのものに共通点があることを意味する。韓国と日本という、非西洋文明にあって一定の教育文化水準を持っていた国が、西洋化という名の近代化を外から強要され、それに応じて教育制度をはじめとする国内諸制度を変革していった、その西洋近代化の最先端の窓口が、韓国では仁川、日本では横浜だった。

横浜は、いろいろなものの「日本初」を誇っている。ビール工場、製パン業、アイスクリームなどの飲食物もさることながら、電話や鉄道といった近代社会のインフラの始まりが横浜だ。仁川も、韓国最初の近代郵便制度のひとつ(1884年)や列車(ソウル−仁川間、1899年)の発祥の地である。中華料理のジャージャー麺を韓国風にアレンジしたチャジャン麺も仁川中華街が起源とされる(あんまり美味しいとは思えなかったけど。「元祖」が必ずしもベストでないのも万国共通)。

さらに、単に「起源」としての共通点だけではない。「今」の姿も共通する。横浜は埋め立て地のみなとみらい地区が再開発されて、おしゃれでモダンな商業地域と高層タワーマンションが立ち並ぶ住居地域になっている。仁川でも松島(ソンド)という埋め立て地域が「国際都市」と名付けられて同様の位置にある。

松島の海辺には新しく音楽、美術、演劇の総合施設であるアートセンター仁川が建設中で、大きなコンサートホールはすでに稼働しているが、美術館は2024年開館予定とのことだった。仁川滞在中にこのホールでオーケストラのコンサートがあり、仁川フィルハーモニー管弦楽団と京畿フィルハーモニー管弦楽団の演奏会を聴くことができた。

オーケストラは、言うまでもなく、ヨーロッパ古典音楽の演奏団体だ。なので、日本や韓国といった非西洋文明国のオーケストラの状況は、その国が西洋文明をどれくらい取り入れて定着させているかのバロメーターになるはずだ。楽器の独奏や歌の独唱であれば、突然変異的に上手な人がいればレベルは高くなるし、欧米のどこかに拠点をかまえて活動することも可能だ。そのような個人の演奏からは社会全体の「西洋化度」は見えにくい。しかし、オーケストラは50人以上、場合によっては100人近くが同時に参加する集団行為だ。当然そこには、社会の縮図が立ち現われてくる。

日本もそうだが、韓国もオーケストラ活動は盛んだ。ソウルには複数の楽団があるし、釜山、光州、大邱など一定の規模の都市はその地域のオーケストラを有して活動している。ソウル近郊でも仁川のほか、富川市、城南市、水原市には自前のオーケストラがあり、富川と城南には立派なコンサートホールもある(韓国全体のオーケストラの数は確定が難しいが、"Musical Chairs"というサイトでは15団体が、"dbstrings.com"では12団体がリストアップされている)。

日本でも状況はよく似ている(2023年現在、日本のプロのオーケストラは33団体である。このほかにも多数のアマチュア団体が活動している)。韓国と日本でこれだけの数のオーケストラがいっせいに西洋古典音楽、それもかなり共通したレパートリー(ベートーヴェンとかチャイコフスキーとか)をせっせと演奏しているというのは、とても興味深い。要するに、西洋近代化の結果は、世界中どこでもだいたい似たり寄ったりになるということだ。ショッピングモールがどこの国のどの都市に行っても似たようなラインナップの店しか入っていないのと同じ現象、すなわち「マクドナルド化」である。

現代の科学も、西洋文明に起源をもつ。そして日本も韓国も、19世紀から20世紀前半にかけての西洋近代化の過程で西洋近代科学の枠組みや手法を積極的に取り入れ、教育制度の中に組みこみ、人材を養成していった。少なくとも日本では、西洋音楽も近代科学も明治期には「文明の最先端の象徴」として、オシャレで「ハイカラ」なだけでなく、世の中を良くしていくために必要なものと認識されていた。農村改良家としての顔ももつ宮沢賢治が、近代科学だけでなく西洋クラシック音楽を愛好していたことはそれを端的に示している。

さて、このように日本も韓国もせっせと導入にいそしんだ西洋近代の科学と音楽だが、現在、どちらもが大きな曲がり角に直面している。おそらくこれは民主主義や市場原理などとともに、西洋近代という大きな枠組み自体の曲がり角であることの一部なのだろうが、その点はここではおいておく。話を科学と音楽に絞る。

西洋近代科学が直面しているふたつの問題は、その方法論そのものが限界に達していることを示唆している。ひとつは「再現性の危機」であり、もうひとつは「査読システムの危機」である。

西洋近代科学は普遍的で文脈に依存しない知識を追究する。したがって、誰かが報告した知識が「本当に」正しいかどうかを、他の専門家たちが追実験や追試験によって再確認する必要がある。何度も再確認できれば、ようやくそれは「正しい」知識と認定される。つまり科学の知識には再現性がなければならない。

しかし現在、この再現性を十分に兼ね備えていない論文が、とくに生命科学や社会心理学などの領域で多いことが問題になっている。「再現性の危機」である。さまざまな要因が複雑に絡み合っているのだが、そのひとつとして、生命現象や社会現象のような複雑な対象では再現性を厳密に保つことが難しいという方法論的な限界があると考えられる。

現代の科学のもうひとつの問題は、発表論文の事前査読制だ。再現性の危機は論文発表後の事後チェック機能の問題だが、こちらは事前チェック機能の問題である。西洋近代科学は、同じ分野の専門家たちが集まる学会や協会という集団において知識をチェックすることでその信頼性を高めてきた。論文を学会誌に投稿しても、このチェックシステムを通過できずに掲載が却下されることは珍しくない。

だが、この事前査読は同業科学者による完全なボランティア作業である。科学者の人数が少ないときはまだしも、現在のように何万人もが同じ分野でしのぎを削り、それに伴って学会誌や専門誌の数も雨後の竹の子のように増えてくると、優れた査読者(すなわち優れた専門家)に事前査読が集中して過剰な負担になり、それを避けようとレベルの低い査読者(二流の専門家)に事前査読を依頼すると、査読が見当外れだったり時間が法外にかかったりといった停滞が生じる。結果として、すでに権威を確立している一流の学術専門誌以外では、質の高くない論文が大量生産されることになる。

そうなると、雑誌の「質の高さ」の尺度化が提案され(被引用指数:Science Citation Index)、「質の高い」雑誌に何本論文を掲載しているかが研究者の優秀さの尺度だという話になる(h-indexなど)。そうすると、その尺度化が行き過ぎて、過度の定量化の弊害が指摘され出す(←イマココ)。

このような状況をひとことで言えば、「科学的な知識生産・流通システムの制度疲労」だと思う。19世紀の、今から見れば少人数の集まりだった学会・協会だからこそ成り立っていた、お互いの無償奉仕による仕組みが、現在の状況にそぐわない事態になっていると言ってよいだろう。現在、事前査読なしで論文を公表できるプレプリントサーバーや著作権を放棄した作品をアップするアカデミックコモンズなど、既存の学術専門誌を経由しない知識生産の方法が模索されている。しかし、まだまだ手探りの状況であり、今後どのようになっていくのか、科学的知識生産がその根本の部分は保ったまま微修正で生き残っていくのか、もう少し大きな変革が不可避となるのか、見通しは立っていない(科学の現状についてのより詳細な議論は拙著『科学とはなにか』講談社ブルーバックス、2021を参照いただきたい)。

ほころびを見せているという点では、オーケストラも同様である。現在のオーケストラ編成の基本型が完成したのは18世紀後半(ハイドン、モーツァルトの時代)で、19世紀を通じて拡大し、20世紀前半から中頃に録音技術の進歩普及とともに最盛期を迎えた。だが、100人近くの楽団員が常駐し、音楽活動を継続していく仕組みを維持するのは経済的にも負担が大きく、アメリカではフィラデルフィア管弦楽団などの名門楽団が破産したり、イギリスでは公的補助金のカットが問題になったりと、仕組みそのものがぎくしゃくしている状況だ。

このような状況をなんとか改善しようと、世界中の多くのオーケストラが地域との密着度を高めたり教育プログラムを充実させたり、コンサートを短時間化して新たな聴衆層獲得を模索したりしている(たとえば、潮博恵『オーケストラは未来をつくる』アルテスパブリッシング、2012にはサンフランシスコ交響楽団のユニークな地域活動が紹介されている)。しかし、オーケストラという仕組みがどのように変化していくのか、見通しは立たない。日本の指揮者・山田和樹は、100年後にオーケストラはあるか?と聞かれて、「ない」と即答している(浦久俊彦・山田和樹『「超」音楽対談 オーケストラに未来はあるか』アルテスパブリッシング、2021)。存続しつづける理由が見当たらない、と。

近代科学でもオーケストラでも、斜陽化するシステムの中で、遅れてそれらの「会員制クラブ」に参加できた日本と韓国は、せっせと水準を上げ、世界の一流と肩を並べるような成果をあげ続けている。

だが、これがいつまで続くのだろうか。続けていくことができるのだろうか。

仁川のコンサートホールはとても立派で、松島の夜景の美しさも相まって、ほれぼれするような環境にある。ソウルに隣接する富川市のアートセンターも昨年(2023年)開館したとのことだ。一国の経済発展から少し遅れて文化が発展するのはどこでも同じだが、この先、経済発展があまり望めない世界的な状況にあって、これらの立派なコンサートホールを維持していくのは相当な負担を将来世代に負わせることになるのではないか。

少子高齢化が進む日韓両国は率先してゲームチェンジャーにならないと自国の存続が危ういようにすら思うが、大阪万博だー、釜山万博だーと言っているようでは、それも期待できそうにない。どうしたらいいんだろうか……?

アートセンター仁川のコンサートホール外観

(写真はすべて著者による撮影。冒頭は仁川市、松島地区の夜景)

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〈ライデン通信②〉デモとストライキと美術館 https://stage.instem.jp/article/2023/05/12/883/ https://stage.instem.jp/article/2023/05/12/883/#respond Fri, 12 May 2023 13:50:00 +0000 https://stage.instem.jp/?p=883 コロナ禍による規制がなくなって以降、ヨーロッパはデモとストライキの季節に突入した。パンデミックやロシアのウクライナ侵攻がもたらした物価高騰やエネルギー不足は、人々の生活を直撃し、労働環境を悪化させた。一方で、地球環境に目を向ければ、温暖化は目に見えて進行しているが、その対策はいっこうに進まない。オランダでは、さまざまな団体のデモンストレーションやプロテスト(抗議行動)は日常茶飯事で、小さな衝突もたびたび起きている。交通機関のストライキは、大規模なものが数回起きているだけでなく、サービスを間引きするかたちでの長いストライキが1ヶ月以上にわたり続いた。また、複数の都市でゴミ清掃員たちがストライキを起こし、私がちょうど訪れたユトレヒトの街はゴミだらけだった。

デモやストライキは事前予告されるため、私のところには必ず在オランダ日本国大使館から「巻き込まれないように」と注意喚起の連絡が入る。大使館からのメールや日本語ニュースの行間からは、日本では、デモやストライキが「悪い」ことだと考えられていることが伝わってくる。しかし、ヨーロッパではこれらは人々の権利であり、長い歴史のなかで、市民が声をあげることで自らの権利や自由を勝ち取ってきたという文脈がある。アムステルダムやハーグの歴史博物館の展示をみれば、そのことがはっきりとわかる。もちろん、そのあおりを食らう側としては非常に困るのだが、それで社会が回っていると、こちらもそういうものかと諦めてすっかり慣れてしまった。

ゴミだらけのユトレヒトの街。
ゴミだらけのユトレヒトの街。

美術館で、作品にトマトスープやマッシュポテトをかけたり、自分たちを作品や壁に糊付けしながら、気候変動への危機を訴える環境運動家たちの運動が話題になったのは、昨年の10月頃のことだ。これらの事件は、世界各国のメディアでドラマティックに報道され、その多くは「けしらかん」という論調で伝えられている。たしかに、けしからんことであるには違いない。環境運動家たちは、作品がガラスや保護材で守られているかを確かめてから対象を選んでおり、作品自体への危害はないが、壁や額縁の損傷をはじめ、ミュージアムにかかる負担はきわめて大きい。また、作品をみる機会が奪われたり、警備が厳しくなることで、来館者も迷惑を被っている。しかし、デモやストライキが日常となっている空間に住んでいると、メディアで切り取られた「事件」とは、少し違う風景もみえてくる。美術館でのデモンストレーションやプロテストは、あちこちで起きているもののひとつにすぎず、一歩扉の外に出ても、そのような運動があちこちで起きているからである。

3月上旬の日曜日、コンサートを聴くためにアムステルダムに赴いたついでに立ち寄ったアムステルダム国立美術館で、環境運動家のプロテストに遭遇した。実行したのは、Extinction Rebellion(絶滅への反逆の意、以下XR)という団体の青年部に所属する15歳から22歳の若者たちだ。彼らはレンブラントの「夜警」の前で横断幕を広げながら座り込み、大声でスローガンを連呼し、「見物客」に向けてスピーチを行った。スピーチは、美術館がKLMオランダ航空など化石燃料を使う企業からスポンサーシップを得ていることへの批判を展開していた。

遭遇してみて興味深かったのは、彼らのプロテストに対して、その場で拍手が沸き起こり、多くの人が笑顔で彼らを撮影していたことである(誰かのブーイングも聞こえたが、すぐにかき消された)。また館の職員たちが現場にやってきて対応したが、運動家らを制止する前に、プロテストが一通り終わるのを待っているかのような時間とタイミングがあった。ある程度ガス抜きをさせてから(?)、やがて彼らと見物客を隔てる幕が立てられ、展示室内の来館者は全員部屋から追い出された。

翌日の地元の記事によると、この若者たちのプロテストの場を、彼(女)らの両親と祖父母が見守っていたという。拍手を先導したのは、家族だろう。このことから、本人たちもその家族も、特に作品に被害を及ぼす意図もないかぎり、ミュージアムという公共の場でこのようなプロテストを展開することは「悪い」ことではないと考えていることがわかる。そのうえ、ミュージアムという場は子供の頃から行き慣れているような居心地のよい空間であり、それほど特別な空間ではなく、扉の外とも地続きなのかもしれない。実際、アムステルダム国立美術館の外には大きな芝生の広場があり、週末にはさまざまな主張をもつ人々がプラカードを持って集うスピーカーズコーナーのような空間になっている。また館の職員のゆっくりとした対応にも慣れている様子がみられた。一方で、展示室にいた来館者は全員退室させられたため、そのことに怒って職員と言い合いをしている観光客もいた。

今回、若き環境運動家たちは、作品はおろか、額縁にもミュージアムの壁にも危害は加えていない。したがって、液体をかけるようなプロテストとは事情が異なるという見方もできる。しかし、彼らは近年ヨーロッパのあちこちで活発に活動を展開しているXRの青年部のメンバーであり、思想的には同じものを共有しており、間違いなくその延長線上にいる。実際、彼らのプロテストの翌日にも、オランダのハーグでXRによる路上でのデモンストレーションと封鎖計画が予告され、私にも大使館から注意を促すメールが届いた。

したがって、今回目の当たりにして驚いたのは、一定数の市民や観光客が、彼らの主張やその手法を容認し、「受け入れている」光景である。デモやストライキが当たり前の国においては、声を上げることに対する基本的な合意・同意があり、それが道路や空港や銀行のみならず、美術館でも起こりうるということだ。それどころか、主張をしたのが若者だったことも手伝ってか、現場には祝祭空間のような雰囲気すらあった。実際、環境運動家は、こうした活動を自ら動画撮影してSNSにアップしており、それによって多くの賛同者と寄付金を得ている。また、先日パリでは年金改革反対デモの関係でルーヴル美術館が1日閉館になったが、館の前でデモを行ったのは、他でもない館の職員たちだった。この事実もまた、ミュージアムにおけるデモやストライキに、ヨーロッパの「現在」が反映されていることを物語っている。と同時に、ミュージアムという組織もまた、デモやストライキの季節のなかで、変わりつつある。このことはまた別の機会があればお伝えしたい。

ハーグ歴史博物館の常設展 "Fighting for Power"には、さまざまな権利を勝ち取るために市民が声をあげてきた歴史が紹介されている。

写真:すべて筆者による撮影

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ベトナム・ハノイ 2022滞在レポート ー「距離(ディスタンス/インターバル)」を見直す時間(後編) https://stage.instem.jp/article/2023/04/14/794/ https://stage.instem.jp/article/2023/04/14/794/#comments Fri, 14 Apr 2023 04:45:44 +0000 https://stage.instem.jp/?p=794 「奔流」的文化 – ハノイのアートシーン


インドシナ半島に位置する東南アジア大陸部の国々は、河川を軸としてその多様で歴史ある文明を成立させてきたと言われているが、そうした水辺の世界にたとえるならば、コロナ前のベトナム、とりわけハノイには、雄大な大河ではなく、無数の、細く激しい水流がぶつかり合う、いわば奔流的文化が築かれていたように思う。ハノイの街並みには、文化/人々が入り乱れる潮流が反映されたような、混在した歴史の痕跡を見ることができる。街のあちこちには中国文化の影響を受けたベトナム王朝時の遺跡や寺院が点在していて、市街のなかに突如として歴史的建築物が現れる。旧市街から少し足を伸ばすと、フランス植民地時代に建設された優雅なオペラハウスが聳え立ち、週末の夕暮れ時には、コンサートを見るためにドレスやアオザイで着飾った華やかな人々で賑わっている。54の民族が暮らすという多民族国家であるベトナムには、ハノイ近郊にも、版画、焼き物、織物などさまざまな伝統品や工芸品を生産する村があり、それらの直売店となる可愛らしい土産物屋や、工房が軒を連ねている。

ハノイ中心地から車で1時間程度の場所にある、日本でも有名な陶器であるバッチャン(Bát Tràng)焼きを生産する村の工房街の路地裏の一角。ハノイが首都になった頃から行われている陶器作りの歴史は深い。
ハノイにあるオペラハウス。1911年のフランス植民地時代に建造された。「ベトナム国立交響楽団(VNSO)」をはじめ、クラシックを中心にさまざまなコンサートが催されている。

こうしたいくつもの歴史的文化が細い水脈のように密集し、集積されているハノイには、伝統から近代、そして現代的な文化芸術を学ぶ若者たちも多く、またそうした潮流のなかで形成されるアートシーンは、とにかく「流れが速い」のだ。

とりわけ近現代以降の芸術という意味での「アートシーン」に着目すると、この数十年の変化はすさまじい。「現代美術的なもの」が芽生えたという、ドイモイ政策の開始による市場開放と観光産業の興隆により、欧米や中国市場に向けたギャラリーを軸としたアート作品がひろがり、また同時に、いわばドイモイ的な経済成長に促されて作られるアートに対抗、あるいは抵抗するための活動や創作を行うさまざまなアーティストが台頭していった。またその後、大使館や各国の国際文化交流を司る機関や事業などをきっかけとする「エンバシー・アート」(と現地では呼ばれている)、いわば「文化外交」の場におけるアートの需要と広がりが起こっていく。国の「外」から求められる経済政策や外交手段としてのアート、あるいはそうした状況下で急速な経済成長を遂げる陸続きの東南アジア隣国とのアーティストの行き来も活発になり、現在はそうしたさまざまなグローバル化の過渡期的状況に揉まれながらも、唯一無二な「ハイブリッドさ」を個性とする同時代的/現代的なアートの潮流が、次々と作り出されている。

ここ数年のハノイのアートシーンをとりまくグローバル化の変容を追うだけでも、刻々と状況が変化するために、時代的な特長を捉えることも難しいと感じるが、そうしたなかで形成されるアートシーンもなおさらだ。たとえばアートスペースなどの場所、そしてイベントや表現を生み出す基盤となるコミュニティ、さらにはその時々に話題となるカルチャー的なトレンドなど、いわば「シーン」を形成するさまざまなモノゴトのすべてが、速い流れのように変貌をとげる。次々と新しいスペースが現れてはなくなり、あらゆるトレンドが生まれ、はたまた国外との接点が作られてはなくなり、そしてまた新しい流れが生まれていくようなアートシーンだという印象だった。今回の短い滞在も、コロナ前の友人たちとの嬉しい再会に併せて、新しくできたスペースやアーティストらとのたくさんの出会いに溢れ、訪れることができなかった2年間の変化に、その流れの速さに追いつけない、と感じてしまうほどである。

ハノイのアートスペースはたびたび場所が変わり、新しいものが次々と現れる。今回、ベトナムの現代美術の萌芽的な存在とされる「ニャサン・スタディオ」や「ギャングオブ5」の中心人物としてよく知られているアーティストのチャン・ルーン(Tran Luong)がディレクターを務めるAPD Centerを訪れた。APD Centerはコロナ禍の2020年ごろから徐々に活動をはじめ、2022年現在では国内出身の若い作家による企画展や、数々のラーニングプログラムを実施するなど、意欲的に活動している。
久しぶりに再会した友人に連れて行ってもらった、ハノイ旧市街にある「AKINA PUB」に張り巡らされたポスターと看板。店名の「AKINA」は中森明菜にちなんでつけられたそうだ。日本のシティポップをこよなく愛するベトナム人の若い店長が経営する、こぢんまりしたサブカル感漂う新しいバーである。店頭には日本のミュージシャンの名前が書かれた提灯が並び、店内のBGMはもちろん中森明菜(アジアのシティポップブームを体感)。コロナ前のハノイはいわゆる西洋人や観光客向けの飲食店がせめぎ合っていた印象だったが、いまは地元の若者のための落ち着いたバーやレストランが活気づいていたように思えた。

ポスト・パンデミックの時代に ー 距離(ディスタンス/インターバル)を埋め直す

ハノイにあるベトナム軍事歴史博物館の外エリアに展示される戦車や戦闘機。ベトナム戦争で実際に使用された数々の武器や軍事品が並ぶ。ハノイには、この軍事博物館の他にもベトナム国立歴史博物館やホアロー収容所など、戦争の歴史を展示する施設がたくさんある。観光地としても有名であり、多くの観光客が立ち寄るなか訪れると、壮絶なベトナム戦争の歴史と、現在起こっている「戦争」の狭間で、なんとも言えない気持ちになる。

ハノイから帰国し、その思い出を振り返ることになった2023 年の春には、ミャンマーのクーデターから2年が経ち、そしてウクライナで起きている戦争から1年が過ぎた。悲しいことに、どちらもまだ悲しみと暴力の連鎖が止まってはいない。「戦争」はあまりに日常的に、その存在感を増している。 

ハノイを訪れたこと、コロナ禍のなかで失われ、そして忘れかけていたさまざまな「距離」への意識、あるいは移動の感覚を思い出すことが出来たこの経験は、とても(心から!)楽しかった。一方で、参加したアーティスト・イン・レジデンス・プログラムでは、「戦争」というキーワードを探ることを通じて、コロナで失われた時間を取り戻す取り組みが行われ、この2年間のアジアをめぐる政治・社会情勢の変化の大きさと、不穏な時代の予兆を感じずにはいられない。この2年の間に忘れかけていた、近くて遠い友人たちとの多様な「距離(ディスタンス/インターバル)」を取り戻し、来たるべき新たな時代に向き合っていく必要があると強く思う。

ハノイの旧市街にて、アーティスト・レジデンスプログラムに参加しているアーティストやキュレーターの友人たちとお茶をする筆者(中央)。
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ベトナム・ハノイ 2022滞在レポート ー「距離(ディスタンス/インターバル)」を見直す時間(前編) https://stage.instem.jp/article/2023/02/01/657/ https://stage.instem.jp/article/2023/02/01/657/#comments Wed, 01 Feb 2023 04:36:00 +0000 https://stage.instem.jp/?p=657 風通しの良い、過「密」なハノイ

2022年の秋、3年ぶりに、ベトナム的秋の到来を感じるハノイを訪れた。11月のハノイは、日中は汗ばむほど温暖な気候だが、夜になると気温は下がり風がとても心地よい。10月以降、ベトナムのコロナ対策は、感染症と限りなく「共生」する方針をとっている。パンデミック初期には、徒歩または自分のバイクや自転車のみという移動制限や、飲食店の営業をテイクアウトのみとするなど、世界的にも厳格なロックダウンが行われたベトナム。しかし、現在では水際対策すらかなり緩和され、アジアをはじめ西洋からの観光客も徐々に戻りつつある。街なかでは「ノーマスク」が多数派といった印象だった。

ベトナムは元々、屋外型の都市である。ハノイは東南アジアのなかでもめずらしく四季があるものの、温暖で湿度が高い気候故に、住居の出入り口は広く大きく設けられ、なかでも飲食店の客席は、路上や半屋外に置かれるのが一般的。人口が多い過密都市にもかかわらず、路上や屋外を基本とした生活様式のために狭苦しさを感じない。ウィルス対策の程度や社会的な方針の設定にはまだまだ世界中が手探りで、こうした限りなく「共生」を目指す社会のあり方には、賛否もあるだろう。しかし、路地脇に並べられた座高の低いプラスチック椅子に座り、隣人の話し声が聞こえないほどクラクションが鳴り響く、夥しい数のバイクや人が行き交う様子を眺めながらベトナムコーヒーを飲む瞬間は、なんとも穏やかで、いまはまだ、パンデミックの時代の最中だという不安を忘れてしまうような居心地の良さがあった。「社会的距離」の適切な設け方は、こうした路上を中心とするような、風通しのよい生活様式と都市空間に見出せるのかもしれない。

久しぶりに訪れたハノイで得た楽しさは、数年ぶりの友人らとの再会にもちろんあるのだが、感覚的な衝撃は食べ物にあった。中国文化、フランス植民地など歴史的に数多くの文化の影響を受けたベトナム・ハノイの食文化はいわば「ハイブリッド」であり、ストリートフードのなかでも特に有名なのは麺料理。3年ぶりに食べたハノイの様々な麺料理は、コロナ禍で失われた2年の味がした。

近くて遠い友人たち ― 「戦争」への思考を通じて繋ぎ直す関係性

キュレーターとして参加したヘリテジスペースの主催するMAPのプログラム内で、参加者のアーティストやヘリテジスペースのメンバーと展覧会開催予定地であるバッチャン村を散策する様子。プログラムの成果となる展覧会は、陶器で有名なバッチャン村にある古い建物で開催されることになった。

今回の滞在の目的は、ハノイのヘリテジスペース(Heritage Space)が主催するMAP(Month of Arts Practice)に参加することだった。2016年に設立されたヘリテジスペースは、主に近現代美術を対象として、展覧会をはじめレクチャーやワークショップなどの文化事業と教育プログラムを行う団体である。そのなかでも大きなプロジェクトであるMAPは、国内外のアーティストやキュレーター、研究者をハノイに招き、一定期間の滞在制作やリサーチを行うアーティスト・イン・レジデンスを伴った事業だ。その期間に国外からのレジデンスプログラムの参加者と地元のアーティストらが交流を重ねながら、毎年設けられるテーマに沿って、成果としての展覧会を作っていく。

筆者(右)がレクチャーを行っている様子。毎週のように、国外から訪れているキュレーターや研究者によるレクチャーが開かれ、2022年のテーマである「戦争」に合わせた意見交換が行われる。(画像提供: Heritage Space/Month of Arts Practice)

ある一定期間、日頃とは異なる土地に滞在しながら調査を行い、その地で出会うアーティストや研究者との交流のなかで表現を模索するアーティスト・イン・レジデンスという取り組みに参加する者にとっての最大の醍醐味とは、想定していない/出来ない出会いと発見にある。コロナ禍においては、テクノロジーを駆使し、移動や制限を補うための様々な新しいコミュニケーション方法が模索されてきた。そうした技術的な革新にコロナ前には気が付かなかった利便さを見出すこともあったものの、やはり現地を訪れなければ見出せない「想定外」があり、そしてこの2年で忘れそうになっていた発見がある。ヘリテジスペースも、この数年はオンラインを用いたMAPを続けていたのだが、ようやく国外からの参加者を交えてハノイで開催することができるようになったのが、この2022年である。

久しぶりにハノイ現地で開催されたMAPのテーマは「戦争」だった。このコロナ禍にも、ミャンマーでの軍事クーデター、ロシアとウクライナの対立という、2つの出来事があった。ミャンマーと同じ東南アジアに位置し、世界に残り少なくなったレーニン像が聳え立つハノイと、東アジアの日本社会とでは、これらの出来事の受けとめ方にも違いがある。従来の歴史的な心情においても、そして同時代に起こりゆく出来事としても、多様で異なるそれぞれのルーツを抱える、(私を含む)アジアのアーティストたちにとって、「戦争」とは非常にアクチュアルかつセンシティブなテーマだった。同時代に生きていたとしても、互いの生まれ育った国や土地の歴史や政治的心情を探りながら議論をすることは、ましてや表現にするのはとても難しい。アジア諸国を行き来し、そこでさまざまな人との出会いを重ねるなかではたびたび、とりわけこうした「戦争」をはじめとする歴史と現在を同時に考える際に、共感と無知――近さと遠さ――を認識させられた。新しいコミュニケーションが求められる時代のなかで、そして移動の制限下で忘れていたのは、こうした議論や時間を共有しながら気が付いていく、あるいは埋めていかなければならない、距離だったのかもしれない。

MAP 2022 の展覧会の様子 (画像提供: Heritage Space/Month of Arts Practice)

このプログラムの様子は、ヘリテジスペースのFacebook イベントページや、MAP2022のカタログが発行されているので(オンライン版あり)是非とも見てほしい。

MAP 2022 の展覧会の様子 (画像提供:Heritage Space/Month of Arts Practice)

ベトナム・ハノイ 2022滞在レポート
ー「距離(ディスタンス/インターバル)」を見直す時間(後編)に続く



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〈ライデン通信 ①〉方法論としてのアジア https://stage.instem.jp/article/2022/12/28/580/ https://stage.instem.jp/article/2022/12/28/580/#respond Wed, 28 Dec 2022 12:31:30 +0000 https://stage.instem.jp/?p=580 2022年9月末、勤務先の大学から在外研究の機会をもらい、オランダ・ライデン市に降り立った。この夏、ヨーロッパでは、コロナ禍の規制を受けない初のバカンスシーズンが到来し、民族大移動(?)がおきて各地の観光施設がパニックに陥った。人員を減らしていた空港での8時間待ちの入国審査や、結局戻ってこなかったロストバゲージなどがたびたびニュースになったが、幸い嵐が去ったあとの到着となった。ちょうどこちらの新学期が始まり、やはりコロナ禍以降初の完全対面での授業や出勤となり、そのことを皆が喜んでいる雰囲気が伝わってくる。とりあえず、幸先のよいスタートを切った。

ライデンといえば、日本ではシーボルトが出島追放後に暮らした町としてある程度は知られているが、一般的な知名度は高くない。実際、アムステルダムやハーグに比べると、圧倒的に小さな町だ。その小さな町で大きな存在感を放つのが、オランダ最古の大学であるライデン大学だ。アジア研究が盛んなことでも知られ、1855年にはヨーロッパで初めて日本学科が設立された。また、図書館は世界屈指のアジアコレクション(特にインドネシア関連の蔵書)を誇る。私が所属している国際アジア研究所(以下IIAS)は、大学の建物が連なる町中の一角にある(※)。スタッフ20人、研究員が十数人というこぢんまりした構成だが、アジアとヨーロッパだけでなく、アジアとアフリカとの関係も射程にいれながら学際的な研究やプロジェクトを促進する、かなりラディカルな組織だ。

IIASのネットワークづくりの核となっているのが、研究員制度(フェローシップ)だ。毎年、アジアからの研究者や、アジア関連の研究をしている欧米の研究者がバランス良く選ばれている。今年度は、インドネシア、フィリピン、インド、中国、ロシア、イタリア、フランス、アメリカ、日本という国々から集ったメンバーで構成されている。一度IIASの研究員になると、その後も何らかのかたちでつながっている人が多く、過去の研究員もしばしば出入りをしているようだ。そのためか、IIASにはいつも「お客さん」がいて、共同研究室で作業をしているとスタッフが紹介しにきてくれる。

国際アジア研究所/International Institute for Asian Studies(IIAS)

研究員はそれぞれ研究発表を行う。研究員同士もなるべくお互い聞き合うことになっており、私にとっては毎回驚きと発見の連続だ。北インドの政治におけるポピュリズムの言説分析をするフランス人(欧米の政治だけみてポピュリズムを一般論で語るな、ということだろう)、フィリピン・ミンダナオ島と沖縄という「周縁」が東アジアにおけるアメリカの覇権の構築に果たす役割を研究するフィリピン人(博士課程は日本に在籍)、インドのラージャスタンやビハールに定住していたバラモン教集団の聖典を解読するイタリア人(その聖典はヒンドゥー教以外にもイラン語の借用やゾロアスター教の影響がみられ、さらに仏教やジャイナ教の要素も含むといい、サンスクリット語だけでなく様々な言語を操る必要がある)、インドネシアの文芸やポピュラー文化における中国性(チャイニーズネス)について研究しているアメリカ人(教鞭を執るのはオーストラリアの大学)などなど、とにかく毎回未知の世界が待っている。そして、彼らの話を聞くたびに、いかに自分がアジアを知らないかを痛感させられる。オランダにいながら、アジアを発見する日々なのである。 

欧米圏では長らく、アジアに関する諸研究は地域研究(エリアスタディーズ)に過ぎなかった。すなわち、ある地域の特殊事情として認識され、政治学から文化史に至るまでのあらゆる視角の研究が、インドネシア研究、インド研究、日本研究という、地域や国家単位で括られた容れ物のなかに閉じ込められてきた。しかし、その分、さまざまな角度からその地域について考える研究者が、縦割りの垣根なくコミュニケーションを取ることができるという側面もあった。また、こうした状況から、学問領域にとらわれない学際的な研究が受け入れられてきた。そして、実はこの状況こそが、今の時代に求められているのではないだろうか。アジアの視点や価値観は、いまや行き詰まりをみせる西洋至上主義的な研究や社会のありかたへの介入であり、もはや方法論になりつつあるのではないかとすら感じる。「方法論としてのアジア」と呼んでもいいかもしれない。

もちろん、この傾向を一般論として語るのはまだ危険だ。この学際性とラディカルな見方は、IIASならではなのだということが、滞在して3ヶ月経った今、徐々にわかってきた。ライデン大学でも、部署間で交流しようという雰囲気は一部にあるものの、どの研究者も縦割りによる動きづらさを口にする。しかし、それでもアジア研究の位置や意味は確実に変わりつつある。

私は90年代以降、短期でも長期でもヨーロッパに定期的に来ている。そこで感じていたのは、アジアはヨーロッパにとってはいつまでも遠い異郷の地だということだった。サイードのオリエンタリズムという概念が色褪せないのは、この距離と、コロニアルな眼差しの残滓がもたらす、一方的なイメージの肥大化やロマンチシズムが今も健在だからだろう。それは研究の世界も例外ではない。しかし一方で、近年の脱植民地主義(デコロナイゼーション)に向けた様々な動きは、明らかに異なるアジアとヨーロッパの関係性を、少しずつだが模索し始めている。アジア研究の位置も、デコロナイゼーションという枠組みも、もちろん薔薇色ではない。しかし、それがもたらしはじめた変化は、確実にそこにある。

(※) IIASは、厳密にはライデン大学ではなく、そのインターファカルティで、1993年にオランダ文部科学省によって設立された。

写真:すべて筆者による撮影

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My Own Language, a Foreign Tongue  https://stage.instem.jp/article/2022/10/02/214/ https://stage.instem.jp/article/2022/10/02/214/#respond Sun, 02 Oct 2022 01:35:02 +0000 https://stage.instem.jp/wp/?p=214 Despite the fact that Irish is still the official first language in Ireland, my first language, like the vast majority of my compatriots, is English. It is an English that differs from British English and American English, though I(we) can slip into either of the aforementioned as required. Before living abroad, I was unaware of the dialectic category of Hiberno-English. The tone and pattern of spoken English in Ireland varies greatly from region to region, despite the nation’s small geographical size and population. Hibernia is the smaller of the two largest islands of the British Isles. Do not mistake the British Isles, a geographical term, with the United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland, of which the Republic of Ireland is not a part. Confused yet? Political debate surrounding the seemingly endless exit of the U.K. from the European Union, better known as Brexit, has highlighted the complexity of geographical and national borders. This is epitomised by the legal impossibilities of establishing customs borders between the U.K. and the E.U., sometimes referred to as the “Irish question.” And so, we may yet see a shift in the political, national or economic borders of the region, but the island of Ireland, Hibernia, has remained so for millennia.

In addition to the colourful range of accents and the broad variety of colloquialisms on the island, there is a distinct dialectic difference in the English spoken among the Irish. It must be considered a dialect due to the grammatical and syntactical deviations from standard English. “Whose English?” you might ask, but we’ll return to that in a moment. Ask an Irish person, “Are you well?” and you will likely receive the retort, “I am.” That’s not so strange, you may be thinking, but you will rarely receive the answers, “Yes,” or “No.” This is because there is no equivalent in Irish. As gaeilge (in Irish), the affirmative or negative are always returned with the relevant verb, and so the remnants of the Irish language have made their way into the Irish use of English. Other examples, such as, “I’ve a fierce hunger on me,” are not difficult to decipher, but certainly would not be uttered from the lips of an English speaker without Irish heritage, or at least a significant amount of time spent on the island. 

Living in Asia, I have met numerous people with no knowledge of, or need to know, anything about my country of birth. Being asked about my heritage has created a need for me to learn more about it. And thus, my interest in the dialect of Hiberno-English was sparked. In part, my own ignorance was due to my specific place of birth, in Dublin. It was only in the mid-19th century that English became the more widely spoken language in Ireland, but The Pale, the enclave of Dublin, was full of English speakers as far back as the 12th century. And this is my more immediate heritage. Before I can say I am Irish, I must accept that I am a Dub, barely Irish in the eyes of many Irish, at least those born beyond The Pale. The Irish use of English is rich with history, playing with rhythm and the mouth-feel of words, layering slang atop borrowed syntax to build impressions of character, places and implied meaning, with a smattering of blunt assertions straight from the heart. James Joyce and Samuel Beckett mastered this approach to the level of genius, and to such a degree that their works still inspire fresh-faced scholars to delve deep and uncover meaning yet unearthed, despite the decades of extant study of their prose.

As a native of Hibernia, it is only natural to adopt the local dialect without question, and Ireland has many further sub-dialects. The English speakers of Ireland are brought up surrounded by a vast array of accents, and with both British and American television and film ever-present alongside Ireland’s own media, we Irish pride ourselves on our ability to adopt and converse in all manifestations of the English language, from the Southern drawl, to the oft-impenetrable Glasgow burr. And so, several years ago, while in conversation with a group of American scholars, high up in the beautiful mountains of Utah, I find myself unable to follow a conversation being had among this group of native English speakers. I was quite taken aback. In the background of the bar, the American news played on television interspersed with British accents, seemingly out of place 2,000 meters high there in Utah. The result of the Brexit referendum was being announced live. I sank back into my chair, Polygamy beer in hand, and while I had difficulty comprehending the logic and reason of the content coming from the television, in our group’s conversation, it was the language that baffled me. The North Americans were using a host of words and expressions unfamiliar to me, so much so that I completely lost the thread of conversation. I allowed the sound of the language to wash over me, hearing English anew, an unfamiliar, foreign vernacular. 

Certainly, it was not the language alone that threw me, but a combination of new slang and unfamiliar content, whether it be local geography, sports, or pop culture. Had I spent the preceding eight years living in Ireland, I might have understood their conversation, even if I had not adopted the new language myself. In that moment, I considered how living in Asia has cut me off from certain aspects of the English-speaking world and culture. I still seek out the movies, news, books and television series, and online content that interests me, but the accidental absorption of the broader culture, that which I do not look for or identify with, does not come and find me in Japan. I know even less about sports and music celebrities, or romantic comedy television series, for example, content I would never select for myself. Online, particularly now that so much culture is filtered through social media, it is not only easy to select content according to our preferences, but the algorithms of social media platforms and search engines inevitably narrow the culture we accidentally access online further, and as such, the overlap and intersecting of culture is rapidly decreasing. There has been much discussion on the resulting polarization of politics, the results of which can be seen in countries all over the world, no better exemplified than in the U.S. 2020 presidential election or the U.K. Brexit referendum in 2016, the results of which were decided by very narrow majorities with each political side vehemently opposed to the other.

Culture and political ideologies are strongly reflected in language. And even within single countries, among people of the same generation, there appears to be a stark difference in language use in accordance with political and cultural values. Nowhere is this more pronounced than in the United States of America. Words that were neutral in tone until quite recently have become venomous or celebratory depending on political stance of the speaker— “snowflake,” “science,” and “facts” are just a few examples. One can be easily fooled into believing that a particular point of view is the norm, with increasingly diametrically opposed right and left political ideas entering our private, curated spaces in the guise of common sense. With such a lack of exposure to diverse opinions and without dialogue to extrapolate meaning and question established opinions and ideologies, the hard lines and divisions between tribes deepen, and with this separation, the language, the shared language, begins to diverge. Certainly, language is not static. It adapts, lives and breathes with its use and utterance, changing form to accommodate societal development, but just as easily, language can adapt and change to accommodate regression.

All photos by Suzanne Mooney

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頭のなかに「空き地」をつくる:山下陽光「0円ショップ」の経済実験    https://stage.instem.jp/article/2022/09/27/129/ https://stage.instem.jp/article/2022/09/27/129/#respond Tue, 27 Sep 2022 00:20:27 +0000 https://stage.instem.jp/wp/?p=129 2020年2月17日から24日の一週間、「0円ショップ」という名前のイベントが福岡市内のギャラリー「art space tetra」で行われた。このイベントを企画した山下陽光(ひかる)は、大胆な色彩や造形で古着をリメイクする服飾ブランド〝途中でやめる〟の主宰であり、賃労働とは異なる自立した仕事づくりの指南書『バイトやめる学校』の出版や、路上で見つけたモノや行為に新たな価値や物語を付与する「新しい骨董」などの多彩な活動で知られている。0円ショップは、もともと彼が東京・高円寺で古着屋を営んでいた時期に、既存のファッションビジネスのあり方に対する違和感から、店の古着や小物を0円で販売するという実験として始まった。

「お客さんが払ってお店が儲かる。その図式を成立させるために100仕入れて70売れて残りの30を安売りして残った10を捨てるようなやり方はそろそろ終わりにして、みんなが持ってきてくれたものが価値になると最高だし、それよりも自分が不要なものを誰かが欲しがってくれるとうれしい。これは物だけに限らず、自分が持ってる技術を0円で披露してもいいし、とにかく、GoogleやツイッターやYouTubeが無料で使えて最高な感じを実際の場所でも地続きでやってみたい」

―― 山下陽光「0円ショップ」呼びかけ文より

もちろん各地に無料でモノをやりとするマーケットやイベントは多くあるが、0円ショップはあくまでも「店」という枠組みを残したまま私たちがネット上で慣れ親しんでいる無料(フリー)の感覚をリアルな場で体験する仕掛けである*1。 もちろん実店舗である以上、店内には何かしらのモノが必要となってくる。そのため山下と友人の編集者O氏は1週間前からSNS上で「自分は必要ないが誰かが欲しがってくれるとうれしい」モノの提供を呼びかけ、自ら軽トラックに乗り込んで市内の友人や知人たちからさまざまな物品を収集し、ギャラリーに並べていった。

オープン当日、会場のドアには「0円ショップ」と刺繍された紅白の暖簾が掛けられ、室内には洋服、食器、本、漫画、アクセサリー、小物などが賑やかに陳列され、ギャラリーはまたたく間に古道具屋風の店内へと変わっていった。偶然通りがかった近所のひとや、友人知人、学生、旅行者らが次々と暖簾をくぐり、全て0円であることの驚きと物珍しさが相まった様子で、並べられた品々を一つ一つ見品定めして、お気に入りの品を持ち帰っていった。とりわけ印象深いのは、会期中、店内でさまざまな出来事が起きていたことだ。初日に店内に置かれていた外国製の椅子を見つけて「これほんとうに0円なんですか!?」と驚いた向かいの床屋の主人に、山下が「そうなんですよ、持ってってください!」と即答する掛け合いにはじまって、隣の居酒屋の主人が棚にあったマンガ全巻を持っていく代わりに、自分の店にあったマンガを0円ショップに持ってきたこと。また自家製の梅酒を持参したひとが自発的に周囲に振る舞い始めたり、偶然立ち寄った旅行者が主催者たちと一緒にラジオ収録を始めたりと、0円ショップ内では普通の店舗とは大きく異なる会話、振る舞い、活動が次々と生まれていった。主催者もいつ誰がモノを持ち去ろうとも少しも気にせず、また誰かが時折勝手に自分のモノを持ち込み置いていった。会期後半になると、0円ショップはすっかりまちの集会所、近所の子供たちの格好の遊び場になっていた。

このように0円ショップとは、「自分は必要ないが誰かが欲しがってくれるとうれしい」という商品とゴミの「あわい」にあるモノたちを収集・陳列し、それらを全て0円(タダ)で提供するというコンセプトによって成り立つ特異な店だ。常識から考えるとモノをタダで販売するというのは不謹慎な行為に映るかもしれない。しかし、0円とショップという一見したところ矛盾した2つの言葉の組み合わせは、私たちに一つの問いを投げかけている。それは、もし既存の経済の仕組み(金銭を介したモノやサービスの売買)が一時的に無効になった場合、ひとは金銭のやりとりなしにどのようにモノやサービスのやりとりを行うのか、という問いである。0円ショップに来てくれたひとたちのなかには店内の品物を見定めそのまま持ち去るひとたちもいたが、同時に主催者や訪れたひとたちとのあいだでさまざまな会話、振る舞い、活動が生み出されており、そのような店の様子を山下は「景気がいい」と表現していた。

一般的に景気とは社会におけるお金の循環であり、お金が1円も回っていないにもかかわらず景気がいいという表現は不思議に聞こえる。けれども「景気」の語源にはもともと和歌や水墨画のなかで表現されていた風景の雰囲気/余情のあり様、つまりある場所におけるひとやモノの気(エネルギー)の自在な流れや循環という意味が含まれているという。そうであるならば、彼のいう景気とはお金ではなく、モノを介した人と人との出会いのなかで生まれる会話、行為、関係性が、ある場所において充満し循環している様子を指しているはずだ。そのとき、0円ショップではモノが商品ではなくある種の「贈り物」として存在していること、店の役割は商品の売り買いの場ではなく、贈り物を贈る/受け取る場へと変化していることに私たちは気づくだろう。

フランスの人類学者マルセル・モースは著書『贈与論』のなかで、世界各地の民族に見られる贈り物の授受の慣習のなかに人類の経済の古層を見出し、それを「贈与経済」と呼んだ。贈与経済の世界ではモノには贈り主の人格や魂の一部が含まれており、お金ではなくモノに宿った魂が個人を超えてさらなるモノやサービスの循環を促していくと考えられていた。一見非合理的な説明にも聞こえるが、実際には「個々人が自己の利益の最大化を動機として行う取引」という近代経済学のモデルとは異なり、集団間で贈り物の贈進・授受・返礼の義務を相互に担うことで、経済だけでなく道徳、法、宗教を含んだ社会全体として財やサービスをやりとりするような互恵的な社会関係が贈与というかたちで反映されている。そしてモースは贈与経済を単に非-西洋社会の風習として捉えるのではなく、協同組合や共済といった資本主義を下から乗り越える民主的な経済モデルとして再生させる道筋を考えていた。

その意味において、0円ショップもまた資本主義とは異なる経済のあり方、つまり貨幣や商品という枠組みの外部でモノやサービスを相互に授受していく贈与経済の一つの試みだと言えるだろう。ただし、0円ショップの方法論がモースのいう贈与経済と全て一致している訳ではない。0円ショップに集められたモノの大部分は、資本主義経済のなかで生産・流通・消費されており、またモースが贈与経済の成立条件として挙げた返礼の義務や、モノを贈り主の人格の一部として捉える視点は0円ショップの活動に含まれていない。何より0円ショップが贈与経済として機能するには、その運営自体を持続可能にする必要がある。

その上で0円ショップの意義は、私たちの頭のなかに一種の「空き地」を生み出すことにあるように思う。資本主義の社会ではあらゆるものに値札がついており、日頃この値札の数字を通してモノ、他者、世界が判断・評価されている。そしてモノやサービスはひとびとの実際の必要に応じてというよりも、数字によって表される成長や利益の最大化を目的に不均衡なかたちで生産・消費されている。しかし、0円ショップはこの数字のマジックを一時的に宙吊りにし、リアルな場所でモノをモノそのものとして見つめ直す時間と空間を私たちに提供している。重要なのは、0円はモノそのものではなく、モノを捉える私たちのまなざしを変えているという点だ。そしてそれは、モノだけでなくひとや世界の見方へと波及していく*2。 0円ショップの期間中に生まれたさまざまな出来事は、ひとびとがそこで出会ったモノやひとを自分の頭のなかの空き地に招き入れて、新たな関係性を創造していった結果であり、贈与経済の社会にもし景気というものがあるとすればそれはどのようなものか、その相貌の一部を私たちに教えてくれるのだ。

*1 同時に、GAFAに代表されるこれらのネットサービスは、実際のところユーザーの情報収集によって莫大な利益を得ている事実は指摘しておきたい。

*2 東京都・国立では別のグループが継続的に「くにたち0円ショップ」の活動を継続しているが、参加者のひとりは「0円ショップは、そこでいいモノを見つけるというよりも、この場所での出会いやおしゃべりが楽しくて継続している」と話している。

イラスト:江上賢一郎

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