デモやストライキは事前予告されるため、私のところには必ず在オランダ日本国大使館から「巻き込まれないように」と注意喚起の連絡が入る。大使館からのメールや日本語ニュースの行間からは、日本では、デモやストライキが「悪い」ことだと考えられていることが伝わってくる。しかし、ヨーロッパではこれらは人々の権利であり、長い歴史のなかで、市民が声をあげることで自らの権利や自由を勝ち取ってきたという文脈がある。アムステルダムやハーグの歴史博物館の展示をみれば、そのことがはっきりとわかる。もちろん、そのあおりを食らう側としては非常に困るのだが、それで社会が回っていると、こちらもそういうものかと諦めてすっかり慣れてしまった。

美術館で、作品にトマトスープやマッシュポテトをかけたり、自分たちを作品や壁に糊付けしながら、気候変動への危機を訴える環境運動家たちの運動が話題になったのは、昨年の10月頃のことだ。これらの事件は、世界各国のメディアでドラマティックに報道され、その多くは「けしらかん」という論調で伝えられている。たしかに、けしからんことであるには違いない。環境運動家たちは、作品がガラスや保護材で守られているかを確かめてから対象を選んでおり、作品自体への危害はないが、壁や額縁の損傷をはじめ、ミュージアムにかかる負担はきわめて大きい。また、作品をみる機会が奪われたり、警備が厳しくなることで、来館者も迷惑を被っている。しかし、デモやストライキが日常となっている空間に住んでいると、メディアで切り取られた「事件」とは、少し違う風景もみえてくる。美術館でのデモンストレーションやプロテストは、あちこちで起きているもののひとつにすぎず、一歩扉の外に出ても、そのような運動があちこちで起きているからである。
3月上旬の日曜日、コンサートを聴くためにアムステルダムに赴いたついでに立ち寄ったアムステルダム国立美術館で、環境運動家のプロテストに遭遇した。実行したのは、Extinction Rebellion(絶滅への反逆の意、以下XR)という団体の青年部に所属する15歳から22歳の若者たちだ。彼らはレンブラントの「夜警」の前で横断幕を広げながら座り込み、大声でスローガンを連呼し、「見物客」に向けてスピーチを行った。スピーチは、美術館がKLMオランダ航空など化石燃料を使う企業からスポンサーシップを得ていることへの批判を展開していた。
遭遇してみて興味深かったのは、彼らのプロテストに対して、その場で拍手が沸き起こり、多くの人が笑顔で彼らを撮影していたことである(誰かのブーイングも聞こえたが、すぐにかき消された)。また館の職員たちが現場にやってきて対応したが、運動家らを制止する前に、プロテストが一通り終わるのを待っているかのような時間とタイミングがあった。ある程度ガス抜きをさせてから(?)、やがて彼らと見物客を隔てる幕が立てられ、展示室内の来館者は全員部屋から追い出された。
翌日の地元の記事によると、この若者たちのプロテストの場を、彼(女)らの両親と祖父母が見守っていたという。拍手を先導したのは、家族だろう。このことから、本人たちもその家族も、特に作品に被害を及ぼす意図もないかぎり、ミュージアムという公共の場でこのようなプロテストを展開することは「悪い」ことではないと考えていることがわかる。そのうえ、ミュージアムという場は子供の頃から行き慣れているような居心地のよい空間であり、それほど特別な空間ではなく、扉の外とも地続きなのかもしれない。実際、アムステルダム国立美術館の外には大きな芝生の広場があり、週末にはさまざまな主張をもつ人々がプラカードを持って集うスピーカーズコーナーのような空間になっている。また館の職員のゆっくりとした対応にも慣れている様子がみられた。一方で、展示室にいた来館者は全員退室させられたため、そのことに怒って職員と言い合いをしている観光客もいた。
今回、若き環境運動家たちは、作品はおろか、額縁にもミュージアムの壁にも危害は加えていない。したがって、液体をかけるようなプロテストとは事情が異なるという見方もできる。しかし、彼らは近年ヨーロッパのあちこちで活発に活動を展開しているXRの青年部のメンバーであり、思想的には同じものを共有しており、間違いなくその延長線上にいる。実際、彼らのプロテストの翌日にも、オランダのハーグでXRによる路上でのデモンストレーションと封鎖計画が予告され、私にも大使館から注意を促すメールが届いた。
したがって、今回目の当たりにして驚いたのは、一定数の市民や観光客が、彼らの主張やその手法を容認し、「受け入れている」光景である。デモやストライキが当たり前の国においては、声を上げることに対する基本的な合意・同意があり、それが道路や空港や銀行のみならず、美術館でも起こりうるということだ。それどころか、主張をしたのが若者だったことも手伝ってか、現場には祝祭空間のような雰囲気すらあった。実際、環境運動家は、こうした活動を自ら動画撮影してSNSにアップしており、それによって多くの賛同者と寄付金を得ている。また、先日パリでは年金改革反対デモの関係でルーヴル美術館が1日閉館になったが、館の前でデモを行ったのは、他でもない館の職員たちだった。この事実もまた、ミュージアムにおけるデモやストライキに、ヨーロッパの「現在」が反映されていることを物語っている。と同時に、ミュージアムという組織もまた、デモやストライキの季節のなかで、変わりつつある。このことはまた別の機会があればお伝えしたい。

写真:すべて筆者による撮影
]]>IIASのネットワークづくりの核となっているのが、研究員制度(フェローシップ)だ。毎年、アジアからの研究者や、アジア関連の研究をしている欧米の研究者がバランス良く選ばれている。今年度は、インドネシア、フィリピン、インド、中国、ロシア、イタリア、フランス、アメリカ、日本という国々から集ったメンバーで構成されている。一度IIASの研究員になると、その後も何らかのかたちでつながっている人が多く、過去の研究員もしばしば出入りをしているようだ。そのためか、IIASにはいつも「お客さん」がいて、共同研究室で作業をしているとスタッフが紹介しにきてくれる。

研究員はそれぞれ研究発表を行う。研究員同士もなるべくお互い聞き合うことになっており、私にとっては毎回驚きと発見の連続だ。北インドの政治におけるポピュリズムの言説分析をするフランス人(欧米の政治だけみてポピュリズムを一般論で語るな、ということだろう)、フィリピン・ミンダナオ島と沖縄という「周縁」が東アジアにおけるアメリカの覇権の構築に果たす役割を研究するフィリピン人(博士課程は日本に在籍)、インドのラージャスタンやビハールに定住していたバラモン教集団の聖典を解読するイタリア人(その聖典はヒンドゥー教以外にもイラン語の借用やゾロアスター教の影響がみられ、さらに仏教やジャイナ教の要素も含むといい、サンスクリット語だけでなく様々な言語を操る必要がある)、インドネシアの文芸やポピュラー文化における中国性(チャイニーズネス)について研究しているアメリカ人(教鞭を執るのはオーストラリアの大学)などなど、とにかく毎回未知の世界が待っている。そして、彼らの話を聞くたびに、いかに自分がアジアを知らないかを痛感させられる。オランダにいながら、アジアを発見する日々なのである。
欧米圏では長らく、アジアに関する諸研究は地域研究(エリアスタディーズ)に過ぎなかった。すなわち、ある地域の特殊事情として認識され、政治学から文化史に至るまでのあらゆる視角の研究が、インドネシア研究、インド研究、日本研究という、地域や国家単位で括られた容れ物のなかに閉じ込められてきた。しかし、その分、さまざまな角度からその地域について考える研究者が、縦割りの垣根なくコミュニケーションを取ることができるという側面もあった。また、こうした状況から、学問領域にとらわれない学際的な研究が受け入れられてきた。そして、実はこの状況こそが、今の時代に求められているのではないだろうか。アジアの視点や価値観は、いまや行き詰まりをみせる西洋至上主義的な研究や社会のありかたへの介入であり、もはや方法論になりつつあるのではないかとすら感じる。「方法論としてのアジア」と呼んでもいいかもしれない。
もちろん、この傾向を一般論として語るのはまだ危険だ。この学際性とラディカルな見方は、IIASならではなのだということが、滞在して3ヶ月経った今、徐々にわかってきた。ライデン大学でも、部署間で交流しようという雰囲気は一部にあるものの、どの研究者も縦割りによる動きづらさを口にする。しかし、それでもアジア研究の位置や意味は確実に変わりつつある。
私は90年代以降、短期でも長期でもヨーロッパに定期的に来ている。そこで感じていたのは、アジアはヨーロッパにとってはいつまでも遠い異郷の地だということだった。サイードのオリエンタリズムという概念が色褪せないのは、この距離と、コロニアルな眼差しの残滓がもたらす、一方的なイメージの肥大化やロマンチシズムが今も健在だからだろう。それは研究の世界も例外ではない。しかし一方で、近年の脱植民地主義(デコロナイゼーション)に向けた様々な動きは、明らかに異なるアジアとヨーロッパの関係性を、少しずつだが模索し始めている。アジア研究の位置も、デコロナイゼーションという枠組みも、もちろん薔薇色ではない。しかし、それがもたらしはじめた変化は、確実にそこにある。
(※) IIASは、厳密にはライデン大学ではなく、そのインターファカルティで、1993年にオランダ文部科学省によって設立された。


写真:すべて筆者による撮影
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