振り返ってみると、このキャッシュレス決済、コロナ禍を契機に広まったわけではない。コロナ禍のインパクトがあまりに大きいために忘れがちだが、2019年10月1日、消費税が8%から10%に上がると同時に、その軽減策として「キャッシュレス・消費者還元事業」が開始され、一気にキャッシュレス決済サービスが乱立するようになったのだ。当時の複雑怪奇な制度と、「〇〇ペイ」の乱立に混乱した人も少なくなかっただろう。この制度の複雑さは、政府が増税の目くらましに意図的に仕掛けたのではないか、と疑いたくなるほどひどいものだった。実際、メディアの報道もキャッシュレス還元の複雑さや混乱への批判が中心となり、増税そのものの是非に関する議論は後景化してしまっていた。
では、2014年4月1日のことは覚えているだろうか。この日、消費税が5%から8%に上がったわけだが、やはりもうひとつ、「キャッシュレス」に関わる変化があった。JR東日本をはじめ、主に関東地方の鉄道会社が「IC運賃」を導入し、SuicaやPasmoなどのICカードを利用する場合と、現金で切符を購入する場合とで、異なる運賃を設定するようになったのだ。消費税率の変化のタイミングで、ICカードは1円単位、切符は10円単位の運賃体系に移行したのである。たとえば山手線の初乗り運賃は、ICカードだと133円だが、切符だと140円だった(2014年4月1日の運賃改定時)。
東日本に限定された話で恐縮だが、普段ICカードを利用している人の中には、運賃がいくらなのか、それが1円単位なのか10円単位なのかなど、あまり意識していない人が多いのではないだろうか。少なくとも私は、日常的な鉄道利用において、運賃を正確に把握しているとはいい難い。かつて毎回切符を購入していた頃には、確実に把握していたにもかかわらず、である。
私自身はコロナ禍以前から、「キャッシュレス派」である。鉄道利用だけでなく、普段の買い物においても、クレジットカードや電子マネー、スマホアプリ決済などを積極的に利用するタイプだ。小銭でお釣りのやりとりをしなくて済むこともあるが、それ以上に、記録が残ることで家計簿をつけやすくなることが大きな理由だ。つまり、私がキャッシュレスというテクノロジーに求めているのは、自分が何にいくら払ったのか、確実に記録が残るようにし、家計を管理することである。しかし実際はどうだろう。キャッシュレスで買い物をすると、ICカードで鉄道に乗るのと同じように、金額を正確に覚えていないことが多い。いや、確認はしている。だが覚えないのだ。
それは、「お金を払う」という経験が「記録」として外部化・客観化されることで、記憶をしなくてよい、という意識が働くからなのかもしれない。管理したかったはずの家計は、外部のメディアに記録されることで意識から疎外され、結果的に管理を放棄してしまうという逆転が起きているのだ。このとき、記録メディアは、身体(の記憶域)を拡張すると同時に、経験的な記憶を身体から切り離し、客観的な記録へと転換してしまう。結果として身体の記憶自体は失われてしまうわけだ。これはメディアのテクノロジーがもつ両義性を示している。自動車の普及が身体の歩行能力を弱めたように、記録メディアの普及は、身体の記憶能力を弱めているのかもしれない。携帯電話の普及で電話番号や待ち合わせ場所を記憶する必要がなくなったことは、一定の年代以上であれば多くの人が実感しているだろう。
キャッシュレスは、単に記憶を外部化しているだけではない。外部化された記録は「行動履歴」として、企業のデータベースに残ることになる。いわば、記憶を記録として売り渡しているのだ。「ポイント還元」はその対価でもある。われわれは「ポイント還元」と引き換えに、お金を払ったという経験の実感を、さらにはその記憶自体を、失っていく。いくら払ったのか正確に覚えられない、というマジックによって増税の痛みは巧みに隠蔽されてしまった、ということなのだろうか。
]]>私が見学したデモンストレーションは、東京と神戸にいる人間同士が、サッカーボールを擬似的にパスし合う、というシステムだった。まず一方の人間が、遠隔地の相手が映る巨大なディスプレイに向かって、プロジェクターで床面に投影されたサッカーボールの像を蹴る。そのボールはディスプレイの「向こう側」に飛んでいき、相手はそのボールを蹴り返す。今度はそのボールがディスプレイの境界から「こちら側」に飛んできて、また蹴り返すことができる。音声や映像を介した会話であれば、遅延があっても「間」を置くことでタイミングを合わせることができるが、サッカーのパスのような身体的な所作を伴う文字どおりのキャッチボールは、遅延があるとうまくいかない。遠隔でありながら「同時」であることを実現するのが、5Gのテクノロジーだ、というわけである。
たしかにボールのやり取りのタイミングは「自然」で、これをVR技術によって360度の映像で表現すれば、同じ場所にいない人間同士が実際にサッカーをできそうな「同時」性がある。しかしこれを目の当たりにしたときの私は、新しいテクノロジーのワクワク感よりも、薄ら寒さ、不気味さともいうべき感情をもたずにはいられなかった。
それはおそらく、メディアが、その媒介性を極限まで透明化し、その存在自体の隠蔽が「完璧」な次元に近づいているからではないか。先述のとおり「超低遅延」とは、メディアが媒介することによって発生するタイムラグを身体に知覚できないレベルまで極小化させることだ。つまり、身体にとってメディアは存在しないのと同じなのである。一方で、それを実現するテクノロジーは高度で複雑であり、新しく不安定なものだ。そのテクノロジーが予定どおり動作しなかったとき、われわれの体験はどうなってしまうのか。それを想像することの困難さと、身体の無自覚さとのギャップが、不気味さの元凶にあるのではないか。つまりこの不気味さは、通信相手の身体が十分「リアル」に見えるにもかかわらず、実際に「ここ」にあるのは機械であって身体ではないという両義性から生じている。これは、ロボットの姿が人間の「リアル」に十分近づくと、その不気味さが急に増すという「不気味の谷」現象と同型的だ。いわばこの不気味さは、メディアが想定外の、異和的な作動の可能性に開かれていることを覚知した身体からの警告なのだ。
5Gが「超低遅延」であるということは、これまでメディアに媒介させることが避けられてきた行為にも、その応用範囲が広がる可能性を含んでいる。たとえば、遠隔手術だ。熟練の外科医の手さばきを、「超低遅延」で遠隔地の患者に適用する手術ロボット(というメディア)が、すでに開発されつつある。また、近年話題の自動運転においても、「AI」のプログラムやデータを、自動車本体ではなくクラウドに格納し、状況判断も車両制御も遠隔で実行できるようになると言われる。「超低遅延」なので、AIがクラウドでも遅延なく、とっさのブレーキも間に合う、というわけだ。こうなると、不気味さは増すばかりである。
翻ってみれば、メディアのテクノロジーは、その空間的・時間的な解像度を上げることで、より「リアル」なコミュニケーションを実現しようと発展してきた。8Kテレビ放送や、Macの「網膜(retina)」ディスプレイはその典型だろう。5Gは、いわば時間的な解像度を高めるテクノロジーだ。もちろん、5Gが実現したからといって、メディアとリアルがただちに識別不能になるわけではない。しかし、メディアの解像度を上げようという社会的な欲望は、衰えることがないようにみえる。実際私たちは、今のオンライン会議システムの解像度の低さには大いに不満をもっているのだ。であるならば、解像度がリアルを追い越すメディア環境は、そう遠くない未来に実現するのだろう。「不気味の谷」現象では、ロボットが完全に人間のコピーと見分けがつかなくなったとき、その不気味さが消失してしまうという。われわれはその「不気味の谷」を、まさに越えようとしているのだろうか。
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